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▽『法華経』にみる萬教帰一論 (その1) (Jan 5, 2011 11:06:10 PM)
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『生長の家』創始者谷口雅春師の教えに
《全ての宗教の真理は一つである》があります。
日本神道、仏教、基督教等の聖典を引用して
その根源なるものを優しく解説してあります
そのためか、アメリカ光明思想のコピーだとか
宗教の百貨店と揶揄されていた時代もありましたが・・・
◆《愛の宗教》と《哲学の宗教》
仏教は、基督教の『重荷を負える者よ、われに来れ、我れ汝をやすましめん』といわれた《愛の宗教》に対して、悟り(正覚)を主とした《哲学の宗教》又は《智慧の宗教》とも考えられているのであります。
そこに仏教は、深い哲学的素養又は天分がないとその仏教哲学はわからないほど難解なもので、到底末法の凡夫の近づき難いものとされていたのであります。ところが、そこに宗教界の二大天才があらわれて、難行道であるところの仏教を、易行道にしたのであります。
その天才の一人は親鸞聖人であり、もうひとりは日蓮上人であります。前者は至心廻向(クラリと心が振り向いて)唯《南無阿弥陀仏》と称名念仏することによって極楽浄土に往生することができるという、まことに容易な方法を唱え始められて、その時代以降の多くの人間に共鳴者を得たのであり、
後者は、経文の題目たる《妙法蓮華経》だけを唱えることによって成仏できる、これこそ聖道門(しょうどうもん)の仏法の難行に耐えることの出来ないところの末法の衆生の救われる道であると説いて、多くの信奉者を得たのであります。
◆法華経には難行道も易行道も説かれている
併し、法華経そのものには易行道も難行道も説かれております。 何故、方便のために易行道を説かなければならないかの理由も説かれているのであります。
たとえば法華経の『新解品しんげほん』には《長者窮子ちょうじゃぐうし》の譬を釈尊はお説きになっていて、
大富長者の息子が幼時に家出をして諸方を流浪しルンペンになって故郷恋しく帰ってくるのですが、自分が貧乏であるから、父母の家も貧乏だ位に思って、貧家を探し廻るが父母の家は見つからない。たまたま大富長者の門前にさしかかって、その壮大なる建物の美に驚いて、ひそかに門を細目にあけて覗いて見ると、中央には殿様、左右にはその家来が綺羅星のように並んでいる。
長者の子は「これは殿様の御殿である」と恐れをなして、家来に見つかって捉まえられたら一大事と思って逃げ出すのですが、殿様というのは、実はその長者息子の父親であり、一目その息子の顔を見ると、「彼は私の一人息子である。彼を呼び来れ。わがすべての有てる物は彼に譲らるべきものなり」とて番頭たちをつかわして、逃げて行く息子を追いかけしめるのです。
息子は追いかけられて捕えられようとするとき、恐怖のあまり、其処に気絶して倒れる。番頭はその由を主人に報告すると、
大富長者は、彼に今直ぐ、《お前はこの家の後継ぎ息子だ》といっても信じないで逃げ出すだろうから、今急に《お前は長者の息子だ》とはいわないで《お前のような罪深い奴でも、どんな罪悪深重の凡夫でも救ってやるという親分がある。その親分の大部屋に来て働かないか》誘ってやって、その働きにしたがって次第に社員としての階級をあげてやって、経理部長にでもなった時に、はじめて《お前はこの家の跡目相続者だといえば疑いはしないで新解するだろう》といったという。
これが『新解品』の要領であって、この譬えを説き終って、その説明に『大富長者は即ち是れ如来なり、我等は皆仏子に似たり・・・・』と法華経は説いているのであります。
《長者の息子》という譬えは、長者は『神』の譬えであり、息子は『神の子』の譬えであります。
急速にお前は『仏の子である』『神の子』だと説いても信じないから、《罪悪深重の凡夫だ》と自分自身を思っているものには、暫くそのように思わせてどんな罪深いものでも、わが名をとなえたら極楽浄土へやってやるぞと仰せられる大親分がある。
それが阿弥陀仏だよというような浄土教系統の教えが人類成長のある時期には必要だと法華経は説いているのであって、決して『念仏を唱えたら無間地獄へ堕ちる』などとは説かれていないのであります。
つまり法華経は、或る時代、或る民族、或る常識の世界では、法華経は《方便品ほうべんぼん》に説かれている『一切の衆生、如来と等しくて異ることなし』(換言すれば、人間悉く神の子であるという意)という真理を説いても中々受け入れられないので、徐々に《方便の教え》を説いて魂の成長するのを待ってから『人間・神の子、悉く仏子なり』の真理を説かねばならぬと、萬教帰一的に説かれているのであります。
〜 つづく 〜
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